「分配的正義の理論」読者各位

 

お詫び

 序章の部分に関しまして、校正段階での手違いで印刷を誤ってしまいました。誠に恐れいりますが、以降の文と差し替えをしていただきたくお願い申し上げます。本来なら許されるべきことではございませんが、どうぞ寛容な処置をお願いいたします。  

 分配的正義の理論,必要または権利要求が競合している個人の間で,社会(集団)が希少な資源または生産物をどのように配分するべきかを問う研究は,少なくとも二千年前に遡ることができる.アリストテレスとプラトンはこの問題についての書物を残しているし,タルムードa)には遺産を相続人の間でどのように分配するかについての記述がある.このような豊富な文献に対する包括的な分析は世界の賢人達がすでに試みており,私はむしろ1950年以降に議論されてきた分配的正義の主要な諸理論の検討を試みたい.過去50年間に,新しい経済学的手法によって正義論が一段と深められ,また古典的正義論が吟味されてきた.ジョン・ロールズの重厚な『正義論』(J.Rawls,Theory of Justice(1971))が出版されて以来,この問題について哲学的関心の再興もあった.本書の課題は,最新の経済学的手法を用いつつ分配的正義の理論に対する現代政治哲学の貢献およびこの問題に対する最近の経済学者の研究がどれほどの意義があるかを評価・判定するところにある.

 社会的選択理論や厚生経済学の分野で研究する多くの経済学者は,分配的正義に関する現代哲学的な考え方にまったく疎い.彼らの研究の価値はこのことによって大変な制約を受けていると私は考えている.というのは,ある社会が資源配分を行う方法を規範的に評価する際に根本的な重要性を有する争点について,哲学者たちが述べているからである.勿論,功利主義やロールズの格差原理に通じている経済学者は多いし,この二つの分配原理は重要であるにしても,本書では2章分も割いていない. 私の中心的な目的は,経済学者の抱く正義の構想が豊かなものになること(少なくとも,分配的正義について最も深く考えてきた経済学者のもっている正義の構想をより豊かにすること)を念頭において,彼らが利用できる哲学的な道具箱の中味を増やすことであり,それによって彼らの政策評価,より一般的に言えば資源配分メカニズムの公正さについての理解をより洗練されたものにすることである.

 最初に経済学者と哲学者の間にある思考形式の方法論上の相違点について述べてみたい.経済学者の多くは,非形式性と厳密性の欠如により政治哲学の書物にすぐに飽きてしまう.現代の経済学者は,興味ある問題をできるだけすばやく形式的・数理的なモデルに組み立てる訓練を受けてきた.例えば,公理はモデルを定義する構成要素間の素朴な関係を要約するものであり,その公理からすぐには明らかでない結論を推論によって導く.経済学者の主な興味はこの推論過程にあり,ある種の強い結論が表面的には弱いいくつかの公理から導かれるという才気溢れた証明や説明によって彼らの美意識が満たされてきた.哲学者もこのような説明様式を一応は評価するが,彼らの真の興味はモデルの定式化が行われる思考プロセスにある.ある政治哲学者が私に述べたように,ひとたび問題が完全に明らかになればすでに彼の哲学的興味は失せてしまう.したがって,哲学者の仕事はあいまいな問題をとりあげ,どのように考えればあいまいさが少なくなるかを示すことにある.すなわち,問題をどのように取り上げればよいのか,問題に答えるにはどのような情報が必要になるのかという問いを追求する.このように経済学モデルに対して哲学者は,常にモデルを記述する用語や公理を検討し,そのモデルに対して反証を提示してモデルが扱えない重要な事例を示すだろう.公理が未解決の問題に暗黙のうちに答えていたり,重要な事例を最初から排除していることを示す例を見出すだろう.経済学者はこのような哲学者の方法をつまらない気晴らしのようなものとみるのが普通であるし,哲学者は経済学者の仕事を微妙な問題を熟慮せずに無理矢理プロクルステスの寝台b)に押し込めるようなものとみる.

 本書で私は,分配的正義に関する経済学者の仕事を評価する際に,できるかぎり哲学者の役割を演じることにする(1章から4章までの大部分).次に,哲学者の仕事を評価するときは一人の経済学者として考えていこう(5章から8章までの大部分).最初の4章では,分配的正義に対する1950年以降の経済学者の主な貢献を概観し,哲学的な問題が不正確に提示されていること(例えば,功利主義が意味するものについてのハーサニの主張.4.3節と4.4節を参照)や,モデルの定式化の際に分配的正義に重要な関連性を有することがらの多く排除していること(例えば,分配的正義にナッシュの交渉理論を適用すること.2.5節,2.6節,3.5節,3.6節を参照)を批判する.後半の4章では,哲学者のいくつかの「曖昧な」な定式化を分析する際に経済学的手法を用いる.すなわち,分配的正義の哲学的理論を経済学者の理解の助けになる方法で解読し,結果として多くの哲学者の主張が一貫しないことを示す.より建設的な議論をするために,経済学者と哲学者双方に受け入れられると期待できる方法で,ある種の哲学的なアイデアをうまく描ける経済学的モデルも提案することにする.これらの例は,5.7節,6.3節,6.4節,8.3節,8.4節にある.

 私の本来のねらいが,経済学者の扱う規範的な問題をより洗練されたものにするために,彼らに納得のいく形で政治哲学を提示することにあると言ったが,逆に,経済学的分析が分配的正義を研究する哲学者にどのような貢献ができると考えればよいのであろうか.残念ながらこの点については,経済学の貢献は補助的なものと言わざるを得ない.経済学的思考によって哲学理論の整合性を調べることができ,具体的に定式化したもの(モデル)を提供することで哲学理論の曖昧な主張を正確なものに変えることもあろう.また,分配的正義の哲学的視点を税制度のような具体的な社会政策に反映させたり,その視点と整合的であり実行可能な社会政策の集合を明らかにできることもあろう.このような経済学の貢献が価値あることは確かであり,おそらく不可欠なものであろう.しかしながら,これまで経済学的思考は分配的正義の内容に関する重要で新しい洞察を生みだしたこともないし,これから生みだすこともないと私は思っている.過去30年間に開発されてきた分配的正義論の新しい ( キー ) 概念−基本財,機能(生き方)と潜在能力(生き方の幅)c),様々な形態の責任性,手続き的正義と結果的正義,ミッドフェア−はすべて哲学的思考から生まれたものである.経済学的な分析によってこれらの概念の多くが間違っていたことが判明すると言うのは正しくない.というのは,本書の後半の四つの章で示したいと思うが,哲学的な思想が正義の内容に対する我々の理解を大きく前進させたからである.すべての理論に何かが欠けているという事実は,分配的正義の問題が微妙で捕らえ難い性質を持っていることを示しているに過ぎない.

 本書では,基本的に年代順に主要な理論を展開するが,順序を入れ替えたところもある.それは,ある理論が導入され次の理論に取って代わられる前に,どれほど重要な具体的展開を示していたかをその最終段階まで追いかけたいからである.1章では,社会的選択に対するケネス・アローの方法,特に1951年に発表された不可能性定理について議論する.この定理は当初,様々な選択肢に関する個々人の選好を集計し,一つの社会的選好を導く可能性を閉ざすものとして悲観的に捉えられていた.本書のねらいに即して言い換えるなら,個々人の選好を,いくつかの望ましいと思われる基準(定理の公理に要約されるもの)に従って考慮することが公正なやり方だとすると,社会の中でそれぞれの公正さを満たすように個々人への資源配分の順序づけることは不可能というものである.しかし,1970年代に,アローの枠組みでは用いられない選好に関するある種の情報が利用可能な場合に,この不可能性定理が無効になるという説得力ある議論が現れた.こうして,この不可能性定理が民主主義の奥底に存在する不整合から導かれるのではなく,個人の選好についてのアローの認めている情報が不足しているから生じたのだと解釈できることになった.具体的に言えば,効用の個人間比較が可能なら,個人の選好を社会の選好に集計する方法が存在するということである.1章ではこのアローの理論を展開する.1.4節で,分配的正義を研究する際には,古典的な社会的選択理論の枠組みを用いるのは必ずしも妥当ではないと論じる.なぜならその枠組みは正義に関しての重要な関連性を有する情報の多くを無視しているからである.そして1.5節ではこの批判への対応策を述べる.

 1950年にジョン・ナッシュは2人交渉問題の公理論による取り扱いを提案しているが,この精神はアローの公理論的方法とよく似ている.彼は,現在では「ナッシュ交渉解」として知られている解を,説得力のある公理で特徴づけた.交渉問題に対する他の公理的な解は,エフド・カライとメイヤー・スモロディンスキー,ウイリアム・トムソンとタージェ・レンズベルグ(Ehud Kalai and Meir Smorodinsky(1975),William Thomson and Terje Lensberg(1989))などが提案している.「ナッシュの交渉理論」の分配的正義の研究への適用は二つの手順で行われてきた.一つは,デイヴィッド・ゴティエ(1986)のように交渉問題を適切に定義し,その解を正義とみる哲学者の方法,もう一つは,トムソンのように正義は交渉問題の結果として特徴づけられるとは考えていないが,直接,正義が要求するものの特徴づけにナッシュの公理的方法を用いるという経済学者の立場である.以上の研究は2章で述べられ,2.5節では分配的正義の問題をこれらが不当に簡略化していることへの批判的検討を行う.

 3章は,本書でいちばん専門用語を多用する章になるが,2章のナッシュ交渉理論で取り上げた難題の解決を試みる.ナッシュ交渉理論は,利用可能な資源や個人の選好順序(効用関数)の情報を無視し,資源配分の問題を「効用の配分」の問題に簡単に還元してしまうという,分配的正義を考察するには不適当な理論である.したがって,分配的正義の要求を満たしうる多くの資源配分メカニズムをこの理論では許容しがたいものとして裁断してしまう.この章では資源と選好を元々の問題に即して考え直すことを試みる.つまり,「効用」情報だけではなく「経済」情報が十分存在する世界において,ナッシュの公理的方法から本来の洞察を再構築できるかという問題である.私はこれが可能であることを示すが,正義について熟慮し討議する際には,「経済情報」の他にもっと別の情報が必要であると哲学者は反論すると思われる.それは,効用関数にどのような種類の「効用」が含まれているのか,そして配分する財の名称に関する情報である.3.5節でこの手の反論への対応策を試みるが,それだけ手間をかけても哲学者には受け入れてもらえないかもしれない.

 功利主義は古ぼけてはいるが注目すべき分配的正義の理論であり,これによれば公正な資源配分は(人口を固定した世界で)人々のすべての効用の和を最大化するものである.1章では,効用関数にいくつかの情報に関する仮定をおき,それを満たす唯一の社会的選択のルールとして功利主義を特徴づけるが,この仮定はきわめて緩いものである.言い換えれば,通常,この特徴づけよりも多くの効用情報があると考えられるから,この唯一性は功利主義を社会政策として推奨するだけの説得力をもたない.しかし,エリック・マスキン(Eric Maskin(1978))は,より厳密な情報の仮定といくつかの魅力的な公理の下で,功利主義が依然として唯一社会的に認められるものであることを証明した.年代順に従って,先にジョン・ハーサニ(John Harsanyi(1953,1955))の研究を紹介する.彼は分配的正義を研究するための思考実験として無知のベールを提案した人物であり,無知のベールの下で人びとが熟慮した結果,功利主義が現れると主張した.さらに,個人と社会の選好がフォンノイマン・モルゲンシュテルン効用をみたす(すなわち,個人と社会が不確実な情報の下で「合理的」に振る舞う)なら,功利主義が唯一の社会的選択ルールであるというもう一つ別の議論も展開した.ハーサニの定理は4.3節,4.4節で検討される.この章の最後に,最適人口規模の問題を論じる.元々,ベンサムの功利主義は「最大多数の最大幸福」を達成する資源配分を社会は選ぶべきだというものだったが,これは一貫しておらず(関係者の数および幸福の集計量という二つの目的を同時に最大化できないから),新しい問題を提起する.つまり,有限の資源が与えられた世界の最適な人口規模は何であるかについてである.4.6節ではこの問題の最近の研究を紹介する.

 5章では,正義の本質がある種の平等主義に存すると考える現代的見解を紹介する.ロールズ(1971)は,功利主義とは主に二つの点で異なる分配的正義論を提案し,この分野を新しく切り開いた.それは,正義は厚生そのものではなく,ロールズが〔社会生活をおくる上での〕「基本」として分類する財を人々に提供することに焦点をあてるべきこと,そして,この基本財を指数化し(功利主義に類似させて)その和を最大化するのでなく,最も少なく分配される基本財の束を最大化すべきこと(格差原理)である.ロールズは社会が人々の間の何を平等にすべきか(平等化の対象)の問題を新たに提起し,以降の平等主義的な分配的正義論ではこれが中心的な課題となってきた.5.2節から5.4節では格差原理に関するロールズの議論を基本財と関連させつつ評価する.サージ・クリストフ・コルム(Serge-Christophe Kolm(1972))も,「マクシミン」(または格差原理)を主張するが,彼の公正観は別のところにある.ロールズは無知のベールの議論を用いてその正当性を訴えたが,コルムは根源的にはすべての人は同じと見なす(5.5節)という考え方である.両者の議論を受けて,アマルティア・セン(Amartya Sen(1980))が登場し,同じく正義を平等主義の観点から議論し,ロールズが選んだ平等化の対象は間違っているとした.彼は正義が要求するものは厚生の平等でも基本財の平等でもなく,財と厚生の間にあるもの(センはこれを「潜在能力(生き方の幅)」と呼ぶ)の平等である.人々は財をいろいろな形の機能(生き方)として活かす.移動するために,周りの世界を理解するために,社会生活をおくるために等々.機能はいろいろな財を消費することで産出されると同時に,それは厚生をもたらす入力にもなる.センはさらに,利用可能な機能ベクトルの集合(潜在能力)を市民の間で平等化する社会が公正であると述べている(5.6節).5.7節ではロールズ,センの正義のモデルを通常の仕方とは少々違った形で示す.このモデルは,異なる個人の間で生活状態の比較が可能である(生活状態は基本財指数ないしは機能指数で測られる)との想定を設けない.

 1974年にロバート・ノージック(Robert Nozick)は,Anarchy,State,and Utopia を出版したが,おそらくこれは現代政治哲学に対する反平等主義からの最も重要な貢献であろう.ノージックは,結果的な分配のパターンに正義は関心を寄せるべきではなく,経済的な相互行為を行う主体が従っている手続きに関心を持つべきだとする.公正な手続きに対する彼の提案は,明らかにJ.ロックの見解を基礎としている.ロックの見解とは,個人が未所有の自然界に労働を付加し生産するものについて,天然資源を「他の人々にも十分に,そして同じようにたっぷり」と残す限りにおいて,その個人に生産物を専有する権原を与えるというものである.6.2節でノージックの考え方をめぐる哲学的論争のいくつかをまとめる.希少資源の世界では,他人に利用可能な資源量を実質的に減らさないことは不可能であり,誰もが生産物を専有できない時が必ずやってくるから,ロックのこの但し書きは強すぎて受入れ難いものである.そこで問題は,新ロック派の人達が天然資源が希少なとき専有に関するロックの但し書きをどのように修正するかということになる.この問題に対するノージックの解は単に一つの可能性にすぎず,6.4節ではノージックよりもずっと平等主義的な結果を導く他の解を紹介する.各個人は自分の意思で労働しその生産物を専有する権原をもつという意味で,各個人が自己所有権をもつとするノージックの前提に対して,6章のこれまでのところでは異議申し立てをしなかった.6.6節では自己所有権が倫理的に魅力あるものではないとするG..コーエン(G.A.Cohen)の最近の議論を概観する.もし彼の論法が説得力のあるものなら,ノージックの正義論に対して当初なされたものよりももっと根本的な異論が可能であろう.

 1981年にロナルド・ドゥオーキン(Ronald Dworkin)は,ロールズによって持ち出されセンが緻密化した問題,つまり平等主義的正義論での平等の対象が何であるかに関する連作論文を発表した.ドウォーキンもその対象は厚生ではないとするが,他の理由も取りあげる.すべての個人の厚生を平等にしようとする社会は,高価な嗜好をもつ者に多くの資源を与えなければならず,それは倫理的に受け入れられないからというものである.社会はビール愛好家よりシャンペン愛好家に多くの資源を与えてはならない.その理由は,後者がシャンペンの嗜好に満足していると想定すれば,それを満たすのに必要な金銭の獲得は個人的責任の問題だからである.さらにドゥオーキンは,厚生の平等にとって代わるべき正しい対抗案は各人に利用可能な資源の束を平等化することであると続ける.しかし彼の議論には,生まれながらの才能のような移転不能な(譲渡できない)資源を資源ベクトルに含めて考えなければならないという難しさが入り込んでいる.つまり,個人の間で資源の束が物理的に平等になることはありえない.問題は次のようになる.固定された移転不能な資源の束の不平等に対して補償するには,移転可能な資源をどのように配分するのが適切なのか.ドゥオーキンはこの問題に対して巧妙な解を提案した.それは,移転不能な貧弱な資源をもって生まれることへの対抗策として,個々人が無知のベールの下で〔不運な生まれを賠償してくれる〕保険を購入できる先行状態から結果として生じたと考えられる場合,その資源配分は重要な点で平等であるとみなされるというものである.このように,ドゥオーキンの薄い無知のベールの下では各人は自らの選好は知っているが,「生誕時のクジ引き」によって受け取ることになる譲渡できない資源の束については予め知ることはできず,各個人にはこのような保険を購入できる同額の金銭が与えられる.実際の移転可能な資源(金銭)の配分状態がこの保険制度の下で生じたものと考えられるなら,それは「平等」とされる.7.3節と7.4節ではドゥオーキンのいくつかの定式化に対する批評を行い,特にこの保険制度は説得力のある平等,すなわち「資源の平等主義者」を喜ばせるような平等を導くものではないことを示す.7.5節では,資源の平等主義者の要求を満たす資源配分メカニズムを見つけだす問題を解くための,公理論的方法を示す.

 ドゥオーキンは平等主義の中に責任という争点を先進的に持ち込んだ.個人の責任性の関心はロールズやセンの議論の中にも存在する.基本財や機能という後二者の平等化の対象は,単に人生を成功させるための入力に過ぎないからである.少なくともロールズとセンは,これらの入力を人生の成功へと変換することは個人の責任であると暗にほのめかしている.別の言い方をすれば,彼らの理論において人生計画の実現の観点からみた厚生とか成功の程度が等しいことを正義は要求せず,厚生や成功を生み出すのに必要なものを平等にすることだけを要求する.しかし,ロールズとセンの著作だと責任の問題に焦点が絞られてないのに対して,ドゥオーキンの作品においてこの問題が中心的な位置を占めるようになる.1980年代の終わりにリチャード・アーヌソン(Richard Arneson(1989))とG..コーエン(1989)がドゥオーキンの考えを一歩進めた.彼らはドゥオーキンの基本的アイデアを次のようなものとして捉えた.それは,人々の優位〔他者と比べて恵まれた境遇にあること〕が責任を科すべきでない周辺環境や特徴によるものである限り,その優位を平等化し,責任を負わすべき周辺環境や特徴による結果なら,人々の優位の違いが許されるというものである.アーヌソンとコーエンの対立点は,どんな人が責任を負わせるべきかという問題局面に関して、ドゥオーキンがどれほど「選好」に重きをおいていたかに関わっている.アーヌソンは,ドゥオーキンとロールズが厚生の平等に反対して並べ立てたすべての議論は,彼のいう「厚生への機会平等」から見ると効果的なものではないという.コーエンは,分配的正義の正しい概念は『優位へのアクセスの平等』に非常に近いものであるという.これらの提案は共にドウォーキン理論を知的に後継するものであり,個人の責任という争点を大々的に扱うものであるが,個人が責任を負うべきことがらの種類についてドゥオーキンとは異なっている.8.1節と8.2節でこの2つの提案について分析する.

 ロールズ,ドゥオーキン,アーヌソンそしてコーエンの理論は,次の意味において機会の平等を主張する理論とみることができる.すなわち,彼らはすべての人々に意味があり,成功する生活を作りだすのに必要とするある種の資力を平等に与えることを考えている.彼らが平等化を主張する「機会」は,伝統的な「上っ面」だけの機会の平等概念よりも非常に多くのものを含んでいる.8.3から8.5節でアーヌソンとコーエンの提案に私が関連づける機会の平等について,税制度を使ってその実施方法を提案する.より正確に言えば,ある種の優位(例えば,健康,所得,厚生)に対する機会の平等化を実行に移すような税制度を社会が設計できるような方法の提案であり,これはどんな個人に責任を課し,または課さないのかという考えと調和している.8.6節では,部分的に個々人に責任が課される要因から所得や厚生がもたらされるとき,その平等化に関して公理的方法に基づく最近の経済学者の研究を紹介する.

 本書が本来扱うべきなのに欠落している(少なくとも)三つの論題がある.それは,搾取理論,羨望のない配分理論,共同体論である.ローマー(Roemer(1994,pp.65-96)の中で説明しているように,搾取理論を取りあげなかったのは,この理論を研究したことで,本来的にこれが公正(不公正)の基本理論とはならないと考えるようになったためである.私は労働者が資本主義のもとで公正に扱われていると言っているのではなく,労働者への不公正な扱いが搾取によるという見方には,これまで以上に詳しい説明が必要であると言いたいのである.マルクスに従えば,いや少なくとも彼の見解に関する私の理解では(Roemer(1994),PartT),労働者搾取の問題は,労働者がその支払いに対して費やした労働よりも少ない労働に対応する賃金を受け取ることで発生する.生産上での「直接的な労働」と「具現化された労働」の財としての交換が不平等であることが明らかに不公正であるとは決して言えない.実際,資本家が工場の正当な所有者であるとき,「剰余労働」(賃金財の中で具現化された労働と,労働者が工場で費やす労働の差)を労働者の工場使用料,言い換えれば,労働者が自分の労働を実りあるものにするために必要な工場の借賃とみることができるのではないだろうか.このように,剰余価値が存在すること,または上述の意味での不平等な労働交換のために労働者が不公正に扱われているとするのは十分な説明になっていない.私は,資本主義のもとで労働者が不正に扱われているとするマルクスの非難を正当化するためには,ロールズ,セン,ドゥオーキン,アーヌソン,コーエン流の平等主義的理論が必要だと考えている.例えば,どんな小集団で工場を所有しようとも,もし市場経済のもとでそうした共同所有が機会の平等化を不可能にしてしまうなら,それは不公正なものとなろう.また,資本家が工場を専有するにいたった方法が不公正だったのかもしれない.どちらの場合ももっと深い理論が必要とされる.

 「羨望のない」(あるいは経済学者が「 ( フェア ) ( ネス ) 」とも呼んでいる)配分状態についても一つの章を費して論じなかった.その理由は,この理論が正義論として説得力をもつとは思えないからである.この考え方は(私の知る限り)ドゥオーキンとファン・パリス(Dworkin(1981b),Van Parijs(1995))を除いて政治哲学者の書物には見当たらない.後にある付録の中で,効用の個人間比較を仮定することなしにパレート最適配分の集合を有意に小さくできるために,この「公正」が経済学者の間で流行してきたことを述べるが,このような理由でもって経済学者の「公正」概念への関心を正当化することは,薄暗い街灯の下で紛失したダイアモンドを探していて他の場所に目が行かないだけのように思える.さらにそこでは,経済学者が単純な交換経済から生産経済に移行する際,個人間比較を暗に取り込む方法で「公正」の定義を修正している.生産経済の中でこの個人間比較を使わざるを得ないなら,交換経済でも同様である.このように,この「公正」の理論は,個人間比較のあらゆる概念と独立していることで称賛されたはずの本質的な特徴を失うことになる.

 共同体論についても,この理論が主たる主張を批評したり説明することに経済学的分析が役だつとは思えないので,本書では取りあげない.ヤン・エルスター(Jon Elster(1992))とH..ヤング(H.P.Young(1994))の興味深い書物がある.二人は社会生活を構成する相異なる「諸領域」ごとに,分配的正義の別種の規範が存在すると論じ,これは共同体論の主張といくらか共鳴している(ウォルツァー (Walzer(1983))を参照).エルスターは異なる社会的領域において希少財や必要な負担の配分に用いられてきた二十余りの配分ルールを整理し,どの状況でどのルールが用いられるのかを説明するような(一つの)一般理論はないと主張する.彼の主張が正しいなら,共同体論の重要な視点についての経済学的分析の範囲は限られたものとなる.

 この本を書き始めたとき,経済学専攻の大学院生で,初年次にミクロ経済学を受講した学生を対象としたテキストとして考えていた.実際,彼らにとっては本書を完全に読みこなせる準備ができているはずである.私は哲学的な考えを過不足ない仕方で言い表すことを意図しており,十分に洗練された読者は,原典を読まなくとも理解できるであろう.しかし,本書をテキストとして使用する場合,関連する哲学文献の選集によって補足されることを強く勧めたい.この分野で研究しようとする経済学者は政治哲学を勉強しなければならないが,少数の翻訳者の受け売りだけで済ますのはよくない.

 私は,分配的正義に興味をもつ政治哲学者,もっと一般に社会科学者に対して本書から学ぶものがあれば幸いに思う.形式的な定理は,いろいろな想定の下で解釈が可能である.経済学的な訓練を受けていない読者も,定理の証明が理解できなくても定理の主張は理解できるものと信じている.後半の四つの章の形式的・数理的表現を使わない部分は,哲学を学んでいない読者が分配的正義の現代理論に取り組む際の導入として役立つものになろう.

 多くの文献を概観する本を書くときには,著者はどの文献に言及するかについて思慮深く選択しなければならない.それは,あまりに多くの文献により読者が挫折するのを防ぐためでもあるし,手ごろな定価の本にするためにも必要である.本書では,周辺領域におかれながら分配的正義の問題に応用可能な多くの重要な研究を取りあげなかった.幸いにもこのような研究を紹介するもので,最近出版された著書や出版予定のものが数多くある.例えば,ムーラン(Moulin(1988)),ブルーム (Broome(1991)),ガートナーとクレミッシュ-アラート(Gaertner and Klemisch-Ahlert(1992)),ピータース(Peters(1992)),ヤング(Young(1994)),トムソン (Thomson(1991,1994)),ムーラン(Moulin(1995)),ハウスマンとマクファーソン(Hausman and McPherson(1995)),コルム(Kolm(1995))である.本書の主要な選択基準は,哲学的に重要な研究,またそのような研究から直接生まれた作品を検討するところにおかれた.私はこの選択がそんなに特異なものではなかったと密かに自負している.

[訳注]

a)タルムードによる遺産配分の例はヤング(Young(1994))に詳しい記述があり,その仁としての論理構造はムーラン(Moulin(1988))に詳しい.邦書では,鈴木光男「新ゲーム理論」(勁草書房)を参照.

 b)古代ギリシャの強盗プロクルステスは,捕まえた人を鉄製の寝台に縛りつけ,その人が寝台より長ければ余った部分を切り,短ければ引き延ばして寝台と同じ長さにしたという伝説. 

   c)鈴村(1988)では,Functioning,Capabilityはそれぞれ機能,潜在能力と訳されており,多くの邦文ではこれが用いられてきた.訳者は機能は「生き方」,潜在能力は「生き方の幅」という表現が適切と考えており,各所で括弧付きで併記する. 

 

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