公共選択の理論は、ある人に言わせると、政治学に経済学的手法を取り入れ、分析科学として確立しようとする野心的なものであると評価します。私はこの意見に全面的には賛成できません。というのも、やっていることと『公共経済学』や『ゲーム理論』との区別がつかないからです。(ただ、政治行動(政党行動)のシミュレーション分析といった手法は新しいのかもしれませんが、新奇性という観点ではあまり関心しませんね) 私は、政治学に必要な数学的手法は経済学でのそれとは違うと考えています。つまり、経済学は理学であり、政治学は工学だということです。政治学の関心は、社会の病理をどのように考えていくべきか、また病からどう脱していくかであり、経済学のそれ(社会的効率性と狭隘な公平性をモデル上で考察する)とは相反するものだと思うのです。(もちろん、私は政治学はもとより,経済学さえ勉強していません。単なる傍観者の意見です。)
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ミクロ経済学を勉強したことがない私が、今はやりの環境評価手法を批判できる資格はないと思います。ただ、『環境』の評価において、それを『公共財』とみること以上の踏み込んだ議論がなされないのは不思議でしかたありません。『環境』は消費財ですか? ありていに言えば、『環境』は自分の一部です。『環境』とのやりとりの中でたえず自己が確立されるのです。すなわち、確立した自己が、その選好を満足させるために良好な『環境』を消費するのではなく、『環境』によって自己が新しく創られていくのです。こういった観点ぬきに、環境評価が経済学者によってなされているのは不思議で仕方有りません。『環境』を守るためには金がいる、金をつけるには客観的な数字がいる、数字をつくるにはいかさまだと分かっていても理論的裏付け?のある経済学的評価が手っ取り早い、こういうことではないでしょうか。まさか、経済学者の多くが本気で経済学的評価によって環境評価ができると考えているとは思えません。彼らは社会的ジレンマに陥っているんですね。
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近年、計画段階からの市民参加やGW(グランドワーク)型の地域づくりが謳われ、すでに多くの場面で実施されているのでしょう。でもちょっと待ってください。市民はそんなに『有能』ですか?一部の『有能』な市民が好き勝手なことをするんじゃないですか? 行政サイドが市民に責任転嫁するために、市民参加だのGWだの煽っているとしか私には思えません。行政はちゃんと地域づくりに関与し市民をマニピュレイト(操作)しなければなりません。マニピュレイトという際どい言葉を使ったのは、行政サイドにこのことを意識してほしいからです。資源(生来的資源を含む)の異なる市民が存在する地域で市民主導の地域づくりを応援するだけなら行政はいらないのです。グローバリゼーションによる経済・科学の進展で、**divideといった現象が顕著になってきました。一言で言います。地域に住む人たちにとって『世界標準』はいらないのです。『世界標準』は地域を破壊します。それとも、人間は自分自身を世界標準のもとで動かし、何かしら世界の目的を達成させるための駒になろうとしているのでしょうか。全世界のことを考える必要はないのです。地域のことを考えなさい。リオ・サミットでの『地球環境を考え地域で活動する』との宣言は本末転倒であって、『地域環境のことを考え地域で活動する』ことが重要なのです。地球環境を考えることをするなというのではないのです。そうではなく、全世界が経済成長を最重点に追及してきたために地球規模で活動する愚行をこれまでやってきたことを反省すべきだ、と言っているのです。今からでも遅くはないのです。『地域環境のことを考えて地域で活動する』が地域づくりの基本です。
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