最近の研究関心

 今春に私の研究上の師匠が突然亡くなり,研究というものがなんだか分からなくなってきた.研究という行為は,地球生命では人間だけがするものだと思っていたが,はたしてそうなのか.学習という行為は,人間以外の動物でもする,と考えられているが,そうともいえない.ただ人間がそう見ているだけである.こういった見方を外部観測という.人間のもつ形式知を頼りに,勝手な合理性基準を当てはめて動物は学習するという….こういった観点では,動物は単なる「機械」なのである.そういえば,サイバネティクスという言葉が流行ったこともあった.では研究はどうなのだろうか.通常の考え方では,学習という行為が洗練されたものとされるであろうが,私はそうは考えていない.なぜなら,学習という行為は,外部観測的であり「研究対象」になりうるが,研究という行為は,内部観測的なもので「研究対象」にはなりえないのである.


 今,内部観測というものの見方に興味をもっている.生命現象を説明するのに都合のいい概念ではあるが,これを自己言及的なオートポイエーシスと同一視してはならない.オートポイエーシスということ自体が,外部観測的なものの見方なのであるから.では内部観測とは何であるか.答えるのは難しいし,私もまだ分かってはいない.ただ私は,あるものの見方と関連しているように見える.
 たとえば私たちは,科学的といわれる研究世界では,研究者自身の外の環境を形式モデルで記述し,過去・現在・未来という時間軸に沿って,過去の経験を未来への推論として導く(これを研究という).将来予測と現在価値で社会の意思決定がなされ,よりよい社会を構築するためには,形式モデルの構成要素(概念)に足りないものを,外部から与えられるにしろ主体的に探すことにしろ,それを獲得するプロセスが学習だと考える.つまり,この世界では,未来は過去と同質なものなのである.過去は「記憶」にすぎず,現在進行形によってその都度,未来は創られているにもかかわらず….


 こういった思索の何が問題で,そこでは何を見失ってしまうのか.それは私たちが研究上で行っている形式世界の獲得と,そこを出発点とした合理的な態度形成である.形式知の獲得,そして自らの価値観による自律的態度の形成がそれである.しかしながらここには,ある出来事が「予想外」であると捉える心性はない.形式世界獲得の未熟さのためにそれを説明できない事象と見なしたり,不確定な世界での態度形成(リスクにうまく対応できる態度形成)と捉えてしまうのである.形式世界を記述するある概念の操作変数を確率変数とみなすと,予想外のことはたまたま生じた出来事であって,確率分布の中に埋め込まれてしまう.複雑系の世界ではなくランダムネスの世界であるから,予想外の出来事であったとしてもそこからは何も生まれない.予想外の出来事にそのまま対峙する姿勢の中に,内部観測的な視点が隠されているのではないか.動物も含めてすべての生命体は内部観測の中に生きている.人間だけが外部観測の中で生きていくのなら,人間は疎外された対象に貶められていくのではないか.これが昨今の経済学の自然科学化なのかもしれない.

 

  ※研究内容についてはタイトルをクリックしてください(英文アブストラクト)。

 

1.公共選択(投票行動、分配的正義)

   公共選択の理論は、ある人に言わせると、政治学に経済学的手法を取り入れ、分析科学として確立しようとする野心的なものであると評価します。私はこの意見に全面的には賛成できません。というのも、やっていることと『公共経済学』や『ゲーム理論』との区別がつかないからです。(ただ、政治行動(政党行動)のシミュレーション分析といった手法は新しいのかもしれませんが、新奇性という観点ではあまり関心しませんね) 私は、政治学に必要な数学的手法は経済学でのそれとは違うと考えています。つまり、経済学は理学であり、政治学は工学だということです。政治学の関心は、社会の病理をどのように考えていくべきか、また病からどう脱していくかであり、経済学のそれ(社会的効率性と狭隘な公平性をモデル上で考察する)とは相反するものだと思うのです。(もちろん、私は政治学はもとより,経済学さえ勉強していません。単なる傍観者の意見です。)

  最近の論文

  JUSTICE-1    JUSTICE-2    JUSTICE-3

 

2.環境評価(ミクロ経済学を基礎とする評価手法への批判)

 ミクロ経済学を勉強したことがない私が、今はやりの環境評価手法を批判できる資格はないと思います。ただ、『環境』の評価において、それを『公共財』とみること以上の踏み込んだ議論がなされないのは不思議でしかたありません。『環境』は消費財ですか? ありていに言えば、『環境』は自分の一部です。『環境』とのやりとりの中でたえず自己が確立されるのです。すなわち、確立した自己が、その選好を満足させるために良好な『環境』を消費するのではなく、『環境』によって自己が新しく創られていくのです。こういった観点ぬきに、環境評価が経済学者によってなされているのは不思議で仕方有りません。『環境』を守るためには金がいる、金をつけるには客観的な数字がいる、数字をつくるにはいかさまだと分かっていても理論的裏付け?のある経済学的評価が手っ取り早い、こういうことではないでしょうか。まさか、経済学者の多くが本気で経済学的評価によって環境評価ができると考えているとは思えません。彼らは社会的ジレンマに陥っているんですね。

  最近の論文

  ECONOMETRICS-1  ECONOMETRICS-2    ECONOMETRICS-3

 

3.地域計画・環境教育(意志決定支援、リアリティ教育)

 近年、計画段階からの市民参加やGW(グランドワーク)型の地域づくりが謳われ、すでに多くの場面で実施されているのでしょう。でもちょっと待ってください。市民はそんなに『有能』ですか?一部の『有能』な市民が好き勝手なことをするんじゃないですか? 行政サイドが市民に責任転嫁するために、市民参加だのGWだの煽っているとしか私には思えません。行政はちゃんと地域づくりに関与し市民をマニピュレイト(操作)しなければなりません。マニピュレイトという際どい言葉を使ったのは、行政サイドにこのことを意識してほしいからです。資源(生来的資源を含む)の異なる市民が存在する地域で市民主導の地域づくりを応援するだけなら行政はいらないのです。グローバリゼーションによる経済・科学の進展で、**divideといった現象が顕著になってきました。一言で言います。地域に住む人たちにとって『世界標準』はいらないのです。『世界標準』は地域を破壊します。それとも、人間は自分自身を世界標準のもとで動かし、何かしら世界の目的を達成させるための駒になろうとしているのでしょうか。全世界のことを考える必要はないのです。地域のことを考えなさい。リオ・サミットでの『地球環境を考え地域で活動する』との宣言は本末転倒であって、『地域環境のことを考え地域で活動する』ことが重要なのです。地球環境を考えることをするなというのではないのです。そうではなく、全世界が経済成長を最重点に追及してきたために地球規模で活動する愚行をこれまでやってきたことを反省すべきだ、と言っているのです。今からでも遅くはないのです。『地域環境のことを考えて地域で活動する』が地域づくりの基本です。

  最近の論文

  GAMING-1   GAMING-2   GAMING-3     Inner-Measurement

 

戻る