CSSI Newsletter No.3-4   Feb.10th,2006

自己紹介  木谷忍 東北大学大学院農学研究科環境経済学分野    

 山口県の周防大島で生まれました。昔は山口県のみかんの90%を生産しているミカンの島でしたが、今では荒れ放題のミカン畑が山々に散在しています。当然のことながら、過疎化(高齢化)とミカン価格の暴落が原因です。幼少期のころは、本家の田んぼの農作業を母親が手伝う傍らで、従兄弟たちと遊び、農作業の邪魔をしては伯母さん達に叱られる毎日でした。

高校は本土にある柳井高校。「本土」っていう言葉を使ってたんですよ。連絡船と電車を乗り継いで通っていました。霧や台風で欠航になると、高校を休めるという「特権」がありました。船が見えて岸に接岸するまでののんびりとした時間、今思うと懐かしいですね。

島民は本当に本州に橋が架かるのを望んでいたんでしょうか。昭和51年に本州と橋で結ばれ、連絡船は廃止されました。高校を卒業して2年後のことですから、島の変化を身をもって知ることはできません。できませんが、帰省するたびに島の活力が失われていくような感覚はありました。それは、少子高齢化が大きな社会問題化する前のことです。決定的だったのは、有料だった橋の通行料が無料になったこと。これも島民が望んだことだったのでしょうか。この無料化には竹下内閣によるふるさと創生基金(4町で4億円)が使われたのです。この無料化によって、島民の多くが本州に買い物に行くことになり、店がどんどん潰れるだけでなく、本州からは釣りやアウトドア指向の高まりで、ゴミは増えるし、島内への粗大ゴミの不法投棄も問題になりました。アウトドアで来島する観光客は、お金を殆どおとしません。

さらに平成の大合併の流れで、一昨年、島の4町が合併し「周防大島町」になったこと。私は残念で仕方ありません。私の故郷であった「大島町」が消えるといったシンポルの喪失ということも個人的には大きいです。大きいですが、私達のCOEのテーマと関係付けていえば、島内の地域格差が一段と広がることは明らかだからです。この拠点では、多くの研究において、生活者一人ひとりの観点から不平等を論じることは少ないでしょう。人々が生活する自然環境、社会環境、身体的な違いなど、恣意的な属性から生まれる不平等は、個人の責任に帰することが理に適わないと考えているわけです。だから、個人はすべて属性を代表する一般的個人であり、匿名の個人なわけです。

確かに、こういった自然科学的な方法は、不平等に関する政策論議には多大な貢献をすることでしょう。ただ、私はこういった社会制度論的な研究だけではなく、実際の名前つきの生活者が住まう地域社会内部で、差別や不平等をどう考え、そしてなくしていくかということが地域社会が持続可能であるための一つの必要条件だと考えています。なぜなら、人間は属性の組で特定される機械ではなく、地域社会と身体と繋がりの中で絶えることのない欲望が満たされなくてはならず、基本的諸自由、権力や特権、所得と富、自尊の基盤など、J.ロールズの基本財を活用して得られる優位だけが、不平等の尺度だとは考えていないからです。名前のある生活者たちが地域社会で生きていくには彼らの身体性、彼らのつくりだした地域の自然や、社会、文化、そういったものにいきいきと結びついていなければならないと考えています。

前置きが長くなりました。もうあまり紙面は残されていません。なぜこのようなお話をしてきたかというと、正直申し上げて、私のやっている研究を「社会階層と不平等研究教育拠点」の中で正当化したいからです。ただ漠然と研究内容を紹介したのでは、この拠点との関係が見えてこないと考えました。

地域づくりを広く捉えれば、地域の人々の豊かな生活のために行うわけですから、地域資源の再分配とみることだってできると思います。この場合、社会階層とか不平等の問題は、社会学で扱うような匿名の世界ではなく、実際の名前のある個人が対象になります。そこには同情とか、感情移入とか、様々な思いが地域市民の胸の中に渦巻いています。社会学からの視点では階層社会であり不平等であっても、地域の中では自然なことであり、また逆もありうる訳です。地域を匿名社会と考えると、その地域が見えてこないばかりか、また他の地域と比較するような場面もでてきます。

私の現在の研究では、ロールプレイによるゲーミングを用いた地域づくり支援のあり方に一石を投じようと、ゲーミング実験を繰り返しています。ロールプレイといっても、学習とか教育のためのものではなく、極めて戦略的にゲーミングに取り入れます。すなわち、役割演技を、社会的役割を超え、ひとりの実在の市民属性まで含めてしまうのです。そしてその市民が、ヴァーチャルな自分(自分の役割演技をする人間)を外から観察していきます。そうすることで、地域づくりに何が足りないのか、自分は何をしなければならないのかという「気づき」を促します。そこに、地域の人々の社会的、経済的な不平等、誰それがこういうことになっている、っていう生々しい問題がクローズアップされてくるのです。

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